Sergei Rachmaninov : セルゲイ・ラフマニノフ

Sergei Rachmaninov : セルゲイ・ラフマニノフ
Biography

セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(Sergei Vasil’evich Rachmaninovは、1873年4月1日- 1943年3月28日)は、ロシア帝国出身の作曲家、ピアニスト、指揮者である。

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Sergei Rachmaninov / セルゲイ・ラフマニノフの生い立ちと活動

父母ともに裕福な貴族の家系の出身で、父方の祖父はジョン・フィールドに師事したこともあるアマチュアのピアニスト、母方の祖父は著名な軍人だった。父親は音楽の素養のある人物だったが受け継いだ領地を維持していくだけの経営の資質には欠けていたようで、セルゲイが生まれた頃には一家はすでにかなり没落していたらしい。

4歳の時、姉たちのために雇われた家庭教師がセルゲイの音楽の才能に気がついたことがきっかけで、彼のためにペテルブルクからピアノ教師としてアンナ・オルナーツカヤが呼び寄せられ、そのレッスンを受けた。9歳の時ついに一家は破産し、オネグの所領は競売にかけられ、ペテルブルクに移住した。まもなく両親は離婚し、父は家族の元を去っていった。セルゲイは音楽の才能を認められ、奨学金を得てペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学することができた。その後、セルゲイはモスクワ音楽院に転入し、ニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿しながらピアノを学ぶことになった。

ズヴェーレフは厳格な指導で知られるピアノ教師で、ラフマニノフにピアノ演奏の基礎を叩き込んだ。ズヴェーレフ邸には多くの著名な音楽家が訪れ、特に彼はピョートル・チャイコフスキーに才能を認められ、目をかけられた。

1891年に18歳でモスクワ音楽院ピアノ科を大金メダルを得て卒業した。金メダルは通例、首席卒業生に与えられたが、当時双璧をなしていたラフマニノフとスクリャービンは、どちらも飛びぬけて優秀であったことから、金メダルをそれぞれ首席、次席として分け合った(スクリャービンは、小金メダル)。同年ピアノ協奏曲第1番を完成させた。

1892年には同院作曲科を卒業、卒業制作として歌劇『アレコ』をわずか数日のうちに書き上げ、金メダルを授けられた。同年10月8日(ユリウス暦では9月26日)にモスクワ電気博覧会で前奏曲嬰ハ短調を初演した。この曲は熱狂的な人気を獲得し、ラフマニノフの代名詞的な存在になった。

ラフマニノフは1895年に交響曲第1番を完成させ、2年後の1897年にはアレクサンドル・グラズノフの指揮によりペテルブルクで初演されたが、これは記録的な大失敗に終わった。この失敗によりラフマニノフは神経衰弱ならびに完全な自信喪失となり、ほとんど作曲ができない状態に陥った。この間、彼はサーヴァ・マモントフの主宰する私設オペラの第二指揮者に就任し、主に演奏活動にいそしんだ。マモントフ・オペラではフョードル・シャリアピンと知り合い、生涯の友情を結んだ。シャリアピンの結婚式では介添人の一人として立ち会った。

1898年にはシャリャーピンと連れ立っての演奏旅行で訪れたヤルタでアントン・チェーホフと出会い、親交を結んだ。チェーホフはラフマニノフの人柄と才能を称賛し、大きな励ましを与えた。

やがて創作への意欲を回復した彼は1900年から翌年にかけて2台のピアノのための組曲第2番とピアノ協奏曲第2番という二つの大作を完成させた。特にダーリに献呈されたピアノ協奏曲第2番は作曲者自身のピアノとジロティの指揮により初演され、大成功を収めた。この作品によってラフマニノフはグリンカ賞を受賞し、作曲家としての名声を確立した。

1902年には従妹のナターリヤ・サーチナと結婚した。当時、従姉妹との結婚には皇帝の許可証が必要だったが、伯母の奔走により無事許可を得ることができた。

1904年から1906年初めまでボリショイ劇場の指揮者を務めた。

同年秋から1909年にかけて家族とともにドレスデンに滞在した。このドレスデン滞在中の1907年に完成させた交響曲第2番は翌1908年の1月にペテルブルクで、2月にモスクワで作曲者自身の指揮により初演され、熱狂的な称賛を以て迎えられた。この作品によりラフマニノフは2度目のグリンカ賞を受賞した。1908年にはアムステルダムでウィレム・メンゲルベルクとの共演でピアノ協奏曲第2番を演奏した。

1909年春にはスイスの画家、アルノルト・ベックリンの同名絵画の複製画に着想を得た交響詩『死の島』を作曲した。同年夏にはイワノフカの別荘で、秋に予定されていたアメリカへの演奏旅行のためにピアノ協奏曲第3番を作曲した。同年11月にニューヨークで自身ピアニストとして初演し、翌年1月にはグスタフ・マーラーとの共演でこの作品を演奏した。

この頃ラフマニノフは女流文学者のマリエッタ・シャギニャンと文通で意見を交わすようになり、1912年には彼女の選んだ詩による歌曲集作品34を作曲した。またこの曲集には終曲としてソプラノ歌手のアントニーナ・ネジダーノヴァのために作曲された「ヴォカリーズ」が収められている。

1917年12月、ラフマニノフは十月革命が成就しボリシェヴィキが政権を掌握したロシアを家族とともに後にし、スカンディナヴィア諸国への演奏旅行に出かけた。そのまま彼は二度とロシアの地を踏むことはなかった。

1918年の秋にアメリカに渡り、以後は主にコンサート・ピアニストとして活動するようになった。それまでラフマニノフのピアニストとしてのレパートリーは自作がほとんどだったが、アメリカ移住を機にベートーヴェンからショパンまで幅広いレパートリーを誇る、極めて活動的なコンサート・ピアニストへと変貌を遂げたのである。1925年以降はヨーロッパでの演奏活動も再開した。

この時期には同様の境遇にあったベンノ・モイセイヴィチやウラディミール・ホロヴィッツと親交を結んだ。フリッツ・クライスラーとの共演による演奏、録音も度々行った。またピアノ制作者のスタインウェイと緊密な関係を保ち、楽器の提供を受けた。

1931年にはスイスのルツェルン湖畔にセナールと呼ばれる別荘を建て、ヨーロッパでの生活の拠点とした。

パガニーニの主題による狂詩曲と交響曲第3番はここで作曲された。1939年8月にはルツェルン音楽祭に出演し、エルネスト・アンセルメとの共演でベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番と自作の狂詩曲を演奏した。

やがてナチスが勢力を拡大するとスイスにも滞在することができなくなった。最後の作品となる交響的舞曲を作曲したのはロングアイランドでのことだった。1942年には家族とともにカリフォルニア州のビバリーヒルズに移り住んだ。左手小指の関節痛に悩まされながらも、演奏活動は亡くなる直前まで続けられた。
1943年3月28日、70歳の誕生日を目前にして癌のためビバリーヒルズの自宅で死去した。ラフマニノフ自身はモスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬されることを望んでいたが戦争中のことでもあり実現できず、6月1日にニューヨーク州ヴァルハラのケンシコ墓地に埋葬された。